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「熊谷直実と平敦盛」最も美しく、最も悲しい物語

新渡戸稲造が明治時代、日本人の精神を欧米の人に伝える為に刊行した「武士道」。
英語で書かれたこの本は当時アメリカで有名になり、ドイツ語、フランス語、
ロシア語などにも翻訳され、日本でもベスト・セラーになりました。
この本の中で、日本人として『仁』を全うした武士」として紹介された
熊谷次郎直実(くまがやじろうなおざね)は、幼い頃から弓矢の達人で、
源頼朝に「日本一の剛の者」と褒められる程でした。
 
時は源平合戦、一の谷合戦が行われた時、源氏の大将 源義経は
この海と山がせまった地形を利用し、海側に陣を構えた平家の裏をかき、
義経は山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲「鵯越の逆落とし」をかけます。
不意を突かれた平家は、海へと逃げることしかできず、源氏の歴史的な勝利となりました。
 

熊谷直実が一の谷の浜に着いた時、ほとんどの平氏は海に逃れた後でした。
しかし、その中で一人だけ逃げ遅れ、馬を海に入れ沖の船に泳いでいた立派な鎧を着た
平家の武者を見つけます。
直実は敦盛を馬から組み落として首を斬ろうと兜を脱がせたところ、
美しい顔立ちと我が子の小次郎と変わらない年齢だったことで躊躇する。
この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝ち負けに関係はない。
 
しかし、自身の手柄ほしさでこの若い命を落とさせることになってしまう。
息子の小次郎が少し怪我を負っただけでも
心辛かったのに、この方の父上が討たれたことを聞いたらどれだけ嘆かれるだろうかと
思いを巡らせました。

 
「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると「あなたはどなたですか。」と
聞き返され、「名乗るほどの者ではありませんが、熊谷直実と申します。」そう答えると、
「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。
どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」と
答えたそうです。直実はその潔さに胸がつまりました。

 
直実は助けてやりたいと思い、泣きながら、
「貴方を助けたいとは思うのだが、既にわが軍は雲霞のように迫っている。
ここで私があなたを逃がしたところで、他の武者に討ち取られてしまうだろう。
それならばせめてわが手にかけて、その後の供養もしようと思いますと語る。

 
命がない事を覚悟した敦盛は、
「私の首を取って行け。大手柄になるだろう。」と言い、
直実は泣く泣く切り落としました。

 
直実が首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づきます。
思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。
その笛を見た時、「あぁ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。
戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心はいっそう締め付けられた。

 
陣地であった須磨寺に、首と笛を持ち帰った直実は、大師堂前の池でその首を洗い、
義経に首を見せたところ、平清盛公の弟、平経盛公の子、従五位の敦盛公であることが分かった。
御年17歳。持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはいなかったといいます。
 

当時17歳の平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将熊谷直実に討たれた話は
平家物語の中で最も美しく、最も悲しい物語として古来語り継がれています。

 
熊谷直実はその後、世の無常と自分の罪を深く悔やみ、法然上人に救いを求め
「蓮生法師」と名のり、出家しました。
蓮生法師は熱心に修行をし、「関東の阿弥陀仏」と評価されるほどでした。
その後、故郷の熊谷(現在の埼玉県熊谷市)に戻って建てた草庵が現在の熊谷寺の始まりです。
熊谷直実は、1207年(建永2年)9月4日、武蔵国熊谷郷で亡くなったと伝えられています。

 
源平合戦が行われた一の谷。須磨寺には敦盛の首塚と銅塚が祀られ、
敦盛の菩提寺として広く知られています。
敦盛の愛用していた笛「小枝の笛」は、通称「青葉の笛」とも呼ばれ、
祖父・平忠盛が鳥羽法皇より賜ったものである。今も須磨寺宝物館に展示されており、
この笛を一度でいいから見てみたいと、古来より全国から多くの方がこのお寺を訪れています。
松尾芭蕉や与謝蕪村、正岡子規なども当寺を訪れて歌を詠まれています。
 

[ – sara 桜羅 – ]
福祥寺(須磨寺)
兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8
 
熊谷直実 デジタルミュージアム
 
 

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