物語のある町宮城県歳時記特集

生き続ける歴史と、変わらぬ自然の美しさ「松島」

松尾芭蕉が最も愛した地であり、
日本で最も美しいと称される「松島」
松島は「天橋立」(京都府)、「宮島」(広島県)に並ぶ日本三景の1つ。
昭和27年には国の特別名勝に指定されました。

 

松島が“日本三景”と呼ばれるようになったのは、
林春斎という学者が1714年『日本国事跡考』という本の中で、
松島、丹後の天橋立、安芸の宮島の3つを、素晴らしい景色の場所として
紹介したのが始まりと言われています。

 

松島湾の沿岸には、およそ8千年前(縄文時代)から人が住んでいた場所を示す遺跡
(特に貝塚など)がたくさんあり、千葉県や茨城県などとともに、全国有数の数を誇っています。

 

645年6月、中大兄皇子と中臣鎌足らは、大きな権力を持っていた豪族の曽我氏を滅ぼして、
新しい国づくりを始めました(大化の改新)。
その後、東北地方にも中央の支配力が及び、土地や農民は全て朝廷のものとなりました。
平安時代、東北地方の支配を強化するために陸奥の国府(役所・軍の拠点)多賀城が築かれましたが、
松島を含むこの地域は、その周辺の宮城郡に属していたのではないか、と考えられています。

 

平安時代の末になると、東北地方を広く支配していた奥州藤原氏は、源頼朝によって滅ぼされ、
松島にも頼朝の家来である相馬氏が地頭としてやってきました。
鎌倉幕府が滅びると、南北朝の争いの影響が及び、この地域の支配者や寺社にも様々な移り変わりがありました。
江戸時代になると、仙台に城を築いた伊達政宗は、城下町を整備しながら大崎八幡神社や塩竃神社など
代表的な寺社を造営・整備しました。その中の一つが瑞巌寺です。
松島には、豊臣秀吉から伊達政宗が拝領し伊達政宗が度々月見を行った
観瀾亭(かんらんてい)があり、月を見る場所として素晴らしいことから、月見御殿と呼ばれていました。
松島や月と言えば、伊達政宗が残した言葉が心打たれます。

 

「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」

 

この言葉には、何も見えない暗闇の中でも、月の光を頼りに道を進むように、先の見えない戦国の時代、
自分が光になって闇を照らし、国を作り直すという思いと、自分が信じた道を頼りにただひたすら歩いてきた
一生であったとの思いがありました。

 

松島は、元々は雄島を始め修行僧の聖地でありましたが、
平安の世から歌に詠まれたり、絵に描かれたりしていたためその名称はよく知れ渡り、松島の名所を
歌に詠んだり、名所を宣伝する本も多く出されました。
その中でも有名なのが、1689年46歳の春から秋にかけて奥羽・北陸地方の旅に出かけ、
「奥のほそ道」を執筆した松尾芭蕉です。「奥のほそ道」から、この旅の目的が、古人の旅杖の跡を慕い、歌枕を訪ね、
そして悲劇の武人を追懐することのみならず、地方の俳人との交流にもあったことを強く印象付けています。
芭蕉が俳諧にかける情熱は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」というほどの凄まじいものなのだと識者はいいます。

 

松尾芭蕉は多くの先人の詩人に思いを寄せますが、特に李白・杜甫・蘇東坡に憧れ、西行・宗祇らを理想とし、
ただひたすら「侘(わび)を楽しむ心を詠ずる」・閑寂な自然を相手に孤独寂寥に徹し豊かな精神を培いました。
そして、西行・宗祇らのように平安中期の聖僧増賀(ぞうが)の「名前を捨てて諸国を放浪した姿」を
そこに思い起こしていたといいます。

 

芭蕉は歌枕や史跡をめぐりながらその風土に染みついている古人の詩魂と邂逅し、その物語ることばに耳をかたむけました。
歌枕の伝統を負った日本の風土の中に自然の美を求め、漂泊の旅の中に自らを置き、一切の功利的色彩を消し去り
純粋な芸術的実践の営みとしたのです。そして、静かに回向(えこう)の一句を手向けて廻り、行雲流水に身を任せ
巡礼者として浮き世の旅をしました。古人の亡魂や山川草木の精霊からその声を聴き、世俗的な冥利を捨て、
乞食行脚の巡礼の旅に徹し、古人の歌もまた天地と等しく永遠性を持つものとして身をもって体感し、
芭蕉は旅の詩人として句作に精魂を傾け尽くしたのです。
[ – sara 桜羅 – ]

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