関東インタビュー栃木県

栃木県益子在住の陶芸家・佐久間藤也さんインタビュー

益子焼を雑器から床の間に置く作品に地位を上げた濱田庄司氏(1894〜1978)。

その濱田庄司と交流があった佐久間藤太郎氏(1900〜76)を祖父にもつ佐久間藤也さん。

現在、益子の地でオリジナリティ溢れる作品を作り続けている佐久間藤也さんに

「陶芸家になるきっかけ」や「益子焼について」語ってもらいました。

益子はオープンマインドの風土を持った地
気づけば200以上の窯元が創作活動を

 この壺を見てください。模様に沿って白い釉薬が落ちるように想定して作りました。普通だったら引力があるので、真下に落ちるんですよ。この白い部分が下まで垂れるとだらしなく感じてしまう。ただ昔の人達は、こうやって溝を入れないで垂れ流している方が多かった。陶芸は、形ももちろん大切ですが、こうやって釉薬の塗り方も人、ぞれぞれ個性があるから面白いんですよ。

―――陶芸家になるきっかけは?

佐久間 私の家は、代々、窯元だったので、自然と子供の頃から陶芸と密接した生活を送っていました。祖父の所に僕が猫や犬とかの動物の陶器を持って行くと、おこずかいをくれるんです(笑)。だからおこずかいが嬉しくていろんなものを作りました。

 私の祖父・佐久間藤太郎(1900〜76)は、祖父のお父さんが作った窯元で益子焼の制作を行っていました。祖父は、ある日、益子に訪れた今では人間国宝となった濱田庄司先生(1894〜1978)に強く惹かれ、日常勤務が終わった後、自分の家に招き、一緒に制作を行っていました。今、座っているこの家に濱田先生も寝泊まりしていたんですよ。

気づけば、この祖父に上手く陶芸の道に引っ張られたんですかね。大学は美術大学に行きました。ただこの時、正直、まだ陶芸家になろうか悩んでいました。

―――大学生の時でもまだ陶芸家になるか悩んでいたんですね。

佐久間 それが、祖父の後継ぎだった私の父が、私が大学4年の時に急逝してしまったんです。窯元には職人も雇っていました。もう迷っている場合ではなく、自ずと私が跡を継ぐことになったんです。大学卒業後、指導所に入りみっちり益子焼を作る勉強をしました。1年後、実家の窯元に戻り、「職人さんに何を作ればいいですか?」と聞いたら、「この見本と同じ湯呑を作りなさい」と言われまして…。1日かけて20個ほど作り、職人さんに「できました!」って見せに行った所、「そのまま土練機にいれなさい。明日も使えるから」って言われたんです。つまり1つも使い物にならないから、土を戻しなさいってことです。僕が1年間学校で学んだことはプロの世界では通用しなかったんです。それが悔しくて、それからは毎日、一所懸命、作り続けました。本当にロクロを立ったのはトイレぐらい。1日、湯呑を400個ひいたこともありました。

―――これで一端のプロの陶芸家になれたわけですか?

佐久間 それがこれで終わりじゃないんです。陶器は形だけ作れば終わりじゃないんです。その窯元のオリジナルの色を出すように釉薬を塗れるようにならないといけません。職人さんからの教えは、「柄杓で何杯」というアバウトのものでした。釉薬の原料は自然のものなので、中にどれだけの成分が混じっているから分かりませんし、その都度、成分比が変わってきます。焼いてみて、確かめながら、微調整を繰り返し、徐々に理想の色に近づけていく作業が本当に大変でした。正直、100%満足いく色なんてまだ出ていません。まだ90%程度じゃないでしょうか。ただ100%の色に届いていないからまだ続けていられるのかもしれません。

―――益子焼の釉薬について知らない人も多いので説明して頂けますか?

佐久間 益子焼の釉薬は、代表的なものが5種類あります。

・柿釉(かきゆう)は、芦沼石(あしぬまいし)の粉末だけを原料としたものです。焼くと、落ち着いた渋い茶色になります。
・糠白釉(ぬかじろゆう)は、籾殻(もみがら)を焼いた灰から作ります。焼くと、白色になります。
・青磁釉(せいじゆう)は、糠白釉に銅を加えて作ります。焼くと、深みのある美しい青色になります。
・並白釉(なみじろゆう)は、大谷津砂(おおやつさ)、石灰が主成分で、焼くと透明になります。
・本黒釉(ほんぐろゆう)は、鉄分を多く含みます。焼くと黒色になります。

この5つを覚えておくといいかもしれません。

―――なるほど、釉薬にもいろいろあるんですね。そもそも益子焼にはどのくらいの歴史があるんですか?

佐久間 益子は、日本の伝統産業地域と呼ばれています。そう呼ばれるには、100年以上の歴史がないと呼ぶことができないんです。益子は、1854年から始まったと言われています。

益子焼は、主に東京、当時の江戸で需要がたくさんありました。なぜそんなに益子焼は人気があったのか大きく2つの理由があります。その当時、宅急便もありません。重くて割れやすい水瓶やすり鉢を100km以上も荷車でひいたら割れてしまうし、大変時間もかかります。それではどうやって運んだと思いますか? 答えは川なんです。益子には隣の真岡市に鬼怒川が流れているんです。その鬼怒川から利根川、利根運河、江戸川を使って陶器を江戸に運んでいたんです。

 もう1つの理由は、益子の裏山で材料の粘土も釉薬、燃料に使用する松薪(まつまき)がたくさん手に入ったからなんです。当時はこの材料を運ぶにも遠くからでは大変でした。近くの山にその材料があれば、運ぶ費用もかかりませんし、その材料を使って大量に作ることもできます。

 この2つの理由が重なって益子焼は、広まっていったんです。

―――そういう理由があったんですね。佐久間さんご自身は、今はどんな活動をされているんですか?

佐久間 今は年に数回、東京や益子で個展活動をしておりますので、オリジナリティある作品を作ろうと心掛けています。もちろんお付き合いある小売店さんの注文もありますので、その制作も行います。こういう小売店さんからの注文は、同じものを何個も作るのですが、個展となるとオンリーワンのモノを作らなければいけません。集中するために夜の寝静まった時間にロクロに向かって制作することも多々あります。どちらにせよ、作るときに考えているのは買って使ってくれるお客さんのこと。お客さんが使っている姿をイメージしながら作ることが多いですね。ただそうは言っても最終的に使い方を決めるのはお客さんです。食器だって、食器として使わずに花瓶にしてもいい。自由な発想で使って頂けるのが一番嬉しいです。

―――自由に使っていいもんなんですね。

佐久間 そうですよ。そもそも益子という町は、自由な産地なんです。「何を作りなさい」「あれを作りなさい」「これやっちゃ駄目」とかないんです。やりたいものをやればいい。

益子出身とか別の地域から来たとかも関係ありません。作った物が歴史的な益子焼だろと、現代陶芸であろうと、一緒に歩んでいけばいいんです。

益子の知名度を上げた濱田庄司先生も神奈川県から益子にきて、オリジナリティある自由な作品を作り上げました。それまでは益子焼は雑器を作っていたんです。台所の隅に置かれる物を作っていたわけですよ。結果的に濱田庄司先生が来て、益子焼は床の間に置かれる作品になったんです。もし当時、濱田庄司先生を「よそ者は受け入れない」ってしていたら今のような益子焼のブランドはなかったかもしれません。このオープンマインドな風土が益子のいい所です。海外の作家さんが益子に移り住んで、創作活動することも可能です。今、益子周辺に移り住んで活動している作家の窯元は200件以上はあります。もう少し広域にすると、400件以上はあります。正直、日本のどこを探してもそんな地域はありませんよ(笑)。

プロフィール

1963年 祖父佐久間藤太郎、父賢司の長男として益子に生る
1985年 名古屋芸術大学美術学部卒業
1986年 栃木県立家業指導所修業
     佐久間藤太郎家に入る
1996年 日光東照営よりロンドン塔王立甲青博物館リーズ
     新館「福徳庵」寄進用抹茶盌製作
1999年 第73回国展初出品初入選 以後連続入選
2002年 第76回国展奨励賞受賞
2003年 第77回国展新人賞受賞
2005年 第79回国展国画賞受賞 国画会準会員推挙
2006年 経済産業大臣奨励賞表彰
2007年 益子陶芸美術館作品収蔵
2012年 栃木県芸術祭美術展エ芸審査員をつとめる
2013年 栃木県芸術祭美術展工芸専門委員になる
     益子焼協同組合理事長就任
2014年 国画会会員推挙
     栃木県名誉県民顕彰記念品製作
2016年 日光東照宮作品収蔵
2017年 関東経済産業局局長功労賞表彰
東京、宇都宮、益子等で個展、グループ展を毎年開催

〒321-4217 栃木県芳賀郡益子町益子644-2

おすすめガイド