土肥実平 「今日の別れの悲しみは明日の大幸のもと」
【 源平合戦 初の石橋山合戦 -源頼朝と湯河原- 】
1180年、小田原市南部の石橋山で行われた源頼朝挙兵後最初の合戦で、
平家方3000騎に対し源氏軍300騎。多勢に無勢、源氏軍は敗れました。
追い詰められた源頼朝は実平の案内で領地である湯河原の山中に逃れましたが、
その時の様子が「吾妻鏡」に記されています。
頼朝を匿う湯河原の武将、土肥実平は、頼朝を頼朝をなんとか逃がそうとします。
「頼朝公御一人なら一ヶ月でもこの実平がお隠しできるのだが、
こう大勢引き連れてはとてもこの山の中に隠れることはできない」と進言し、
なおも別れをためらっている頼朝に
「今日の別れの悲しみは明日の大幸のもとになるのです。
ここのところは悲しみを堪え、御命をながらえて、どうか他日この敗戦の恥を
そそいでください」と訓し、一同は涙を流しながらそれぞれ散っていきました。
この時、頼朝の主従はわずか7人。
頼朝が伊豆に流されて以降傍近く仕える藤九朗盛長を除く他6名は、
土肥実平はじめ実平の一族であったそうです。
後に頼朝は、実平の手配した小船で房総国(千葉)に逃げ延び、再起を計ります。
それ以後源氏軍は勝利を続け、結果として頼朝は関東を制することになるのです。
鎌倉幕府の成立も、この地での実平の助けがなければ不可能だったと伝えられています。
土肥次郎実平(土肥実平)は、当時湯河原を領地していた武将。
源平盛衰記には、源氏・平家双方の中で最も有名な武将として
実平のことが多く語られています。