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骨寺村荘園遺跡から見る「黄金の国ジパング」の栄華


13世紀ヨーロッパでベストセラーになった「東方見聞録」。
この書物の中で日本は「黄金の国ジパング」として紹介されている。
これはヴェネツィア商人のマルコポーロが24年に亘って
アジア各地を見聞した旅行記である。
1271年、ペルシャからパミール高原、ゴビ砂漠を越え、
1275年に上都でフビライ・ハンに拝謁。フビライ・ハンに重用され、
元の各地に使節として派遣されるなど見聞を深めることとなった。
実際にはマルコ・ポーロは日本に訪れておらず、
黄金の国とは中国で聞いた噂が元で書かれたという。


東方見聞録にある「莫大な金を産出し」という記述は、
奥州の金産地を指していると考えられている。
当時の奥州は豊富な砂金が採掘され、奥州を統治していた
奥州藤原氏は、その豊富に採れる砂金を活用して、
朝廷や宋(当時の中国)に莫大な量の金を献上したと言われている。
宋との交易を通して、奥州藤原氏が中尊寺金色堂を建立した話は
中国の商人にも伝わったと考えられる。


12世紀に奥州藤原氏の初代・藤原清衡が建立した中尊寺金色堂は、
名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁など床面に至るまで
漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられている。
中尊寺金色堂は、内乱が続いた「前九年、後三年の役」で
犠牲となった者の霊を敵味方なく慰め、仏の教えによる
平和な理想社会である「仏国土」を実現するため建立された。


平安時代初期、この地は大和朝廷に支配されることなく
安倍氏が統治していたが、やがて大和朝廷の支配下に置かれると、
大和朝廷に服属した安倍氏と清原氏が支配を任された。
しかし、後にこの安倍氏と清原氏は「前九年、後三年の役」で
源頼義と源義家と争い、多くの犠牲者を出した。
この安倍氏の血を引き、後にこの地を治めたのが
奥州藤原氏(初代奥州・藤原清衡)である。


平安浄土の国づくりを理想にかかげた藤原清衡は、
1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、
奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。
また、当時、千もあったとされる村々(荘園)に寺を作り、
仏法を広め生活を支援するなど、人々が困らないように努めた。
この、平安末期から中世の水田、荘園の形を色濃く残す
貴重な遺構群の一部が今も骨寺村荘園遺跡(国指定史跡)として
一関市に現存している。


骨寺村の歴史は、自在房蓮光(じざいぼうれんこう)が、
私領であった骨寺村を中尊寺経蔵に寄進したことにはじまる。(1126年)
蓮光は、藤原清衡の発願による紺紙金銀字交書一切経
(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)の書写事業を8年がかりで完成させた。
その功によって蓮光は、紺紙金銀字交書一切経を納める中尊寺経蔵の
初代別当(長官)に任ぜられ、骨寺村を治めることになった。
これが中尊寺経蔵別当領骨寺村のはじまりである。


『紺紙金銀字交書一切経』は、経・律・論など仏教の経典を集大成したもので、
又、釈迦説法図や経意にちなんだ絵のほか、楼閣、山水、動植物、人物など
自由な変化に富んだ密画が描かれており、写経史上類を見ないものであるとともに、
絵画史上においても貴重な資料とされている。
この『紺紙金銀字交書一切経』は、平安時代後期における代表的なお経であり、
金字や銀字で書写するには莫大な費用をつぎ込なまくてはならず、
藤原氏の経済力と文化力の高さが表れている。


平安時代や鎌倉幕府成立後も同様、奥州藤原氏は莫大な金や広大な荘園の所有により、
朝廷や鎌倉幕府に十分対抗できる力があったとされている。
また、朝廷や幕府と力の均等を保つことができたのは、そうした理由が大きい。
初代奥州藤原清衡から4代まで、この地に築いた功績は大きい。


後に奥州藤原氏が鎌倉幕府・源頼朝に滅ぼされた後、
『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、中尊寺経蔵別当心蓮らは
志波郡陣ヶ岡に宿営していた頼朝の下に参上して、
中尊寺が清衡の草創で鳥羽法皇の御願寺であること、
経蔵は紺紙金銀字交書一切経を納める特別厳重な
霊場であることを説き、寺の存続と寺領の安堵を求めた。
これにより、中尊寺及び骨寺村は鎌倉幕府の庇護により存続し、
江戸時代になると仙台藩領内となり伊達氏の庇護を受けた。


今もなお、貴重な荘園遺跡が現存しているのは、この地を大切に守り、
伝えていこうという多くの人の強い思いによって現在に繋がったからではないか。
平泉といえば中尊寺が有名であり、世界遺産にも登録されているが、
その中尊寺を支えた荘園遺跡もぜひ一見する価値がある。


取材協力:骨寺村荘園交流館

https://www.honedera.jp/
骨寺村荘園遺跡

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