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中村吉右衛門(歌舞伎俳優/人間国宝) 追悼  ― 男の度量とは ― 長谷川平蔵の妻・久栄に焦点を当て ―

2021年も「年の瀬」となった。
先月亡くなられた中村吉右衛門さんを懐かしみ、
鬼平犯科帳「むかしの男」を、長谷川平蔵の妻・久栄(ひさえ)に
焦点を当てて書いてみたくなった。


― むかしの男  ― 


この話は長谷川平蔵の妻、久栄(ひさえ)に関わる。


久栄にむかしの男がいたのだ。


と言っても、久栄が生娘で初心だったころに
隣家の不良息子に弄ばれて凌辱されたのである。
平蔵はそれを承知で久栄を貰い受けた。


ところが、それから二十年経って、この男は喰いっぱぐれて
盗賊の用心棒に成り下がり、二十年前のことを持ち出して久栄を脅し、
ゆすろうとしていた。
事件は平蔵の甲州出張中に起きた。


その日、久栄に一通の手紙が届いたのである。
手紙の裏に記された名前の略字を見て久栄は「ハッ」となった。
差出人はその「むかしの男」だった。
手紙には「明日、護国寺門前に来るように」とあった。


しかし久栄は毅然と対処し、男はたちまち平蔵の配下によって
引っ捕らえられ、盗賊改め方の留置所にぶち込まれた。

しかも平蔵の片腕である筆頭与力の佐嶋忠介が敏感に何事かを感じ取り、
番人はじめ何者をも近づかせることなく男を厳重監禁の上、隔離したのである。

まもなくして平蔵も出張から帰宅した。


しかし、それで男は開き直った。
どうせおれは処刑される。
それなら最後の大悪だくみをやってやろう!
久栄との過去の情事を平蔵に詳細に吹聴してやる。
夫婦とも死ぬまで苦しめ!
さらに平蔵が怒り狂えばこの話が外に漏れていくに違いない。


公儀火付盗賊改め方の長官夫人と盗賊との情事が世間に面白おかしく
流布すれば長谷川平蔵は失脚するだろう。

うまくいけば、平蔵をこころよく思わない幕閣やライバルの旗本どもが
ここぞとばかりに騒ぎ立て、長谷川家は取り潰しになるかもしれない。

平蔵!久栄!思い知れ!


久栄にはこの男の考えていることがよくわかる。


殿さま(平蔵)の直属の上司、京極備前守高久様は殿さま(平蔵)を
理解してくださっているが、京極様お一人で長谷川平蔵をかばいきれるか。

このようなことで殿さま(平蔵)を失脚させてしまうのか、
長谷川家お取り潰しにまでなるのか。

もしそんなことになればわたくしは生きていられない。
亡き義父様にも義母様にも申し訳が立たない。
同じく亡き実の父にも母にも合わせる顔がない。


殿さま(平蔵)はわたくしが傷ものとなったことを
承知で嫁に貰い受けてくださった。
そのことを殿さま(平蔵)がはじめて父に申し出られたとき、
父は目に涙をいっぱいに溜めて「平蔵殿、かたじけない。
よろしく頼みます!」と言って殿さま(平蔵)に深く頭を下げてくださった。


殿さまとわたくしの長男の辰蔵はまだまだ半人前、娘はまだ幼い。
しかし殿さまは心から可愛がってくださる。
こんなむかしの男のことで殿さまを苦しめてはならない!


殿さまを失脚させてなるものか!
お家お取り潰しなどもってのほか!
いざというときは、この一命に代えて殿さま(平蔵)と長谷川家を守りぬく。
久栄は長谷川家に嫁ぐ日に母から貰いうけた懐剣を握りしめた。
この懐剣で男を刺し殺し、わたくしもそのまま自害して果てよう!
わたくしは長谷川平蔵の妻である!


その日の夜になって、平蔵はひとり、男がぶち込まれている留置所に向かった。
気配を感じた久栄は懐剣を持ってそっと平蔵の後をつけた。


平蔵が留置場に入るのを確かめると、息を殺して懐剣を握りしめ、
近づいて戸口の外から中を伺う。
男にとっては最後の悪だくみのチャンス到来である。
平蔵は若いころから久栄と親しかったので、
久栄の家の隣家にいたこの男とも顔馴染みだった。


男は勝ち誇ったようにがなった。
「平蔵!よく聴け!」
「お前の女房の久栄を初めて抱いた男はこのおれだ!」
「おれが久栄を女にしてやったんだ!」


外で息を殺していた久栄はギュッと血がにじむほどに唇を噛んだ。
懐剣を握る手がブルブル震えた。
こ、こんな男に! と、殿さまが!


しかし男のがなり声が続く
「平蔵!初めての夜に久栄がどんな声で泣いたか知ってるか!」
もはやこれまで!
久栄は懐剣を抜いて脱兎のごとく戸口に飛び込む。
しかし、それよりも先に平蔵の泰然とした声が響いた。


長谷川平蔵はまったく動じることなく、


「それがどうした」


と言ってのけたのである。
そこには少しの感情の乱れもない。長谷川平蔵は男の自信に満ちていた。
男は思いがけない平蔵の言葉に声が詰まった。
久栄も燎原の火のように駆け込んだ足が平蔵の言葉で止まった。


平蔵は続けた。
「おめえに冥途の土産に聞かせてやろう。
「おめえは久栄を抱いたと言って騒ぐが、残念だったな、
おめえが抱いたのは生きた久栄じゃねえ。魂の入っていねえただの抜け殻よ。」
「久栄を生きた本当の女にしたのはこの長谷川平蔵だ。」


平蔵は久栄を真実愛した。
久栄を本当の女にしたのは、生きた女にしたのは、
平蔵の魂からほとばしる久栄への愛情である。
それが平蔵の芯を貫く男気となり、どこまでも久栄を包み込む
平蔵の包容力となっていた。



久栄は衝撃に打たれ、全身の力が抜けてポロリと懐剣を落とした。
両眼から熱い涙が溢れてきて、こぼれ出た。


けっきょく、むかしの男が期待したことは何事も起こることなく、
男は処刑された。


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古鳥史康

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