栃木県益子町インタビュー栃木県

栃木県益子町の陶芸家・見目木実さん

――――陶芸家になられた経緯を教えて頂けますか。

見目 生まれは東京の駒込です。父が彫刻家で、小さい頃から造形物が身近にある環境でした。まず父と同じことをやったら純粋な自分の表現ができなくなるし、敵わないだろうとも思いました。父は土いじりはしていたけど、でも焼くってことはしていなかった。焼くことは父にとっては未知の世界。それで陶芸を選びました。

 高校3年の時、卒業したら美大に行くつもりだったんですけど、「どの美大にしよう」と選んでいた時に美大のガイド本の一番最後のページに、まだ3年目の新しい学校が紹介されてたんです。それが京都にある嵯峨美術短期大学。1970年代の話ですけど。京都に住んでみたいというのもあったし、新しい学校で未知な世界にすごく魅かれて、嵯峨美術短期大学に決めました。大学生活は、本当に刺激的な2年間でした。自由な校風で興味深い先生がいっぱいて。入学当初は教員免許を取ろうと思っていたのですが、机の上の勉強よりは陶器を作る実習が面白くなっちゃって。今は駄目だと思うけど、当時は窯焼きをしている時なんかは工房に寝泊まりして作業をしたりして。卒業制作では、同級生が23人いたんだけど、23人分の球体の陶器を作ってプレゼントしました。半円のものを2つ合わせて球体にしたから、結局、半円の陶器を50個位作った。卒業展示では一番場所とってたかな(笑)。大学生活は勉強していたというか、夢中で土と遊んでいた2年間でしたよ。

――――それで美大卒業後に陶芸家の道に行ったんですか?

見目 そうですね。美大卒業後は、東京に戻らなきゃいけなかったから、新宿にある陶芸教室で陶芸教えながら、有名な和食店の器を作らせてもらったりしてました。2年間くらいやっていたんだけど、新宿のビルの10階で土いじりしていることに疑問を感じてきて、東京を離れて、好きな陶芸家さんでもあった伊藤東彦(いとう・もとひこ)先生の所に弟子入りしようと思って、ある日、笠間に行ったんです。ただすでにお弟子さんがいるからって、断られたの。それでとぼとぼ駅まで歩いていたら、子供が庭で遊んでて、そこにはヤギもいて、そんな家の横を通りかかったら、家の中から男性が出てきて、「こんな田舎道、女性1人で歩いている人はいないよ」って声をかけてくれて。それが陶芸家の小島英一(こじま・えいいち)先生でした。この時はまだ国語の教師をしながら2足の草鞋で陶芸家をしていて。伊藤先生の所に行って弟子入りを断られたという話をしたら、「弟子というわけじゃないけど、ウチに来て一緒に陶器作りをしましょう」と誘って頂いて。奥さんも子供さんも小島さんもみんな人柄がよくて、「小島先生の所もいいな」って思ったんです。家に帰って、両親に相談したら、即決で行ってきなさいという話になって。新宿の陶芸教室を辞めて、笠間の小島先生の所で陶芸の勉強をすることになったんです。

小島さんの家の近くにアパートを借りたんだけど、6畳にキッチン付いて、トイレは共同で1ケ月4500円、約40年前の話だけど。それで小島先生の所で勉強させてもらいつつ、釉薬の勉強は別の所でさせてもらったりして。でも小島先生もまだ若かったから師匠というよりは「一緒にやっていこう」という感じで仲間みたいな存在でした。笠間には約2年間いました。その後、縁あって益子に移住してきました。移住のチャンスをくれたのは大先輩の陶芸家、小滝悦郎さんでした。小滝さんの作品に私はものすごく影響を受けたんです。味わいがあって、フォルムとかデザインがとっても好きでした。釉薬も独特で焼き上がりがなんとも優しいですよ。私は小滝さんがいなかったら益子に来てなかったと思う。小滝さんの所に遊びに行くと、ストーブの上で珈琲豆をいってくれて、、、今でもその珈琲の香りを覚えている。本当に美味しい珈琲だった。

――――たくさんの素敵な方達に出会い、自分の作風も出来上がってきたようですね。

陶芸家人生で何か転機になった出来事はありますか?

見目 2011年3月11日の東日本大震災です。益子で一番古い方の登り窯が崩れてしまったんです。これから先、自分で作陶することで、一番は「安全」ということを考えるようになりました。とにかく火事も起こしたくないですし。それで電気窯を購入しました。電気窯だと出来上がりが見劣りするなんて言われてますけど、今ではほとんど薪窯で焼いた陶器と見分けつかなくなりました。その理由としては、今、益子の土にこだわって作っているんです。5,6年前に家の近くで配管工事をやっていたんですけど、その時に粘土層があって、工事の人にその粘土をもらったんですよ。その土を使って、薪窯で焼いた陶器と電気釜で焼いた陶器を比べてみたら、電気窯で焼いた方が私が目指す色が出たの。みんな電気で焼いたとは思えないくらい綺麗な色に焼けて。それは電気窯と仲良くなれたってことだと思う。電気窯で焼くようになって、本当にストレスがなくなりました。そのストレスっていうのは焼いている時に、「地震が来たらどうしよう」とか「火事になったらどうしよう」とかそういうストレスね。それが本当になくなって、平穏な気持ちで窯焼きができるようになりました。

―――益子に来て40年。益子焼の変化みたいなものはありましたか?

見目 益子という町は、人の出入りが自由な町で、濱田庄司さん(1894年-1978年)がいた頃は民藝が主流だったんだけど、濱田さんが亡くなった後、若い人が益子焼でないものを作って発表するようになりました。新しい個性的な作品もいっぱいあるんですけど、その一方で売れ筋の陶器をみんながマネして作ってしまうこともあって…。それでは個性もなにもなくなってしまう。もちろん売れるということは消費者もそれを望んでいる所があると思うんです。売れるから流行りにのってしまうのも分かるんですけど、もっと自分の個性を大切にしてほしいと思います。

2022年6月30日(木)~7月4日(月)
見目木実さんらの個展を開催
場所はGallery field(東京・江戸川橋)
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