樵舟、海原を駆ける
上野での国立博物館で過去に開催された特別展 「名作誕生ー繋がる日本美術」
この特別展は、雪舟、狩野探幽、伊藤若冲などの名作誕生の秘話を詳らかにしている。
もちろん雪舟も探幽も若冲も日本を代表する日本人画家であるが、この特別展は、じつは彼らはいずれも中国古来の名作から如何に影響を受け、中国古来の名作を如何に模していたかを読み解こうとするものだ。
なんと?
けしからんではないか!
日本の芸術とは日本人の魂である。この日本の地で2万年にわたって培われてきた日本人のこころ、日本人の魂が、日本の芸術となって結実しているのではないのか?
いや、そのとおりなのだ(笑)
日本の芸術は、間違いなく、この日本の地で2万年にわたって培われてきた日本人のこころ、日本人の魂が結実したものである。
模倣という言葉には単に形をまねるだけという印象がある。だからけっして元の作品を超えることはない。なんでも鑑定団なんかでも模倣品は二束三文じゃないか。
しかし雪舟も探幽も若冲も、中国古来の名作を観て刺激され、それら中国古来の名作を超えるほどの作品を生み出している。いや、比較しようのない、中国のものではない、日本人の名作、すなわち日本人の魂を生み出しているのである。
ようするに模倣ではなく、それらを手本として、本来の自らの日本人の精神を掘り起こし、表現してきたのだ。
こうしてわれわれも、彼ら日本人による日本人の日本美術を通して、日本人のこころを見つめなおし、呼び覚ましていくのである。
池田樵舟は、伝え聞く逸話からすると、根っから愛と和の精神に溢れた根っからの縄文日本人である。
その樵舟、語る。
・・・・・・・・・
書家として今の私があるのは、師・景嘉(けいか)(故人)の存在が大きい。
師は、兎に角基本が如何に大事であるかを説いていた。自身の作で最も思い入れのある三つのうちに千字文があるのも、基本を大事としていた師景嘉による。
千字文は中国をはじめ、かつて多くの国の漢字の手習いの基本としていたもので、南朝・梁の武帝が当時文章家として有名であった文官の周興嗣(しゅう こうし)に文章を作らせたのが始まりである。
千字文は天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた、4字を1句とする250個の短句からなる韻文で構成されている。
周興嗣以後は、歴代の能書家が千字文を書いているが、書聖王羲之の7世の孫、智永が書いた『真草千字文』が有名である。
(※書聖王羲之の字に最も近いのが智永と言われている。)
古事記によると、日本には270~310年頃『千字文』と『論語』10篇が伝わったとされており、奈良時代には『眞草千字文』が国宝とされている。
また、千字文は手習いの基本であるが、書道では名作を模して品格を身に着ける「臨書」という手法がある。
これは名品を手本とすることで、自らが本来持っている品格が自然に磨かれていくもので、真似るというのはその為の訓練である。
私に出来ることは、亡き師・景嘉らを手本として、書を通して、私自身である日本人の精神と品格に磨きをかけ、次の世代に引き継ぐことだと切に感じている。
・・・・・・・・・
かくして、樵舟もまた、大海原を超えて、古来中国の名品に感銘を受け、それらを手本として、日本人樵舟自身の魂と品格を呼び覚まし、ますます磨きをかけていくのであり、
われわれもまた、その樵舟作品を観るたびに、日本人としての魂と品格が呼び覚まされ、磨かれていくのを感じるのである。
古鳥史康