国内でも稀な絶対秘仏の聖観音菩薩(浅草寺)
浅草寺の秘仏である 聖観音菩薩の由来は、江戸浦(隅田川)で漁をしていた兄弟が尊像を見つけたことに始まります。その像を見た兄弟の主人、土師真中知(はじのまなかち)は出家し、628年に自宅を寺として聖観音像を祀ったのが浅草寺の始まり。
645年には浅草の地を訪れた勝海上人が御像を目の当たりにして供養中本尊が現れ、「現世においても後世においても目のあたり排することなきよう」と言葉を残したことから以来、秘仏と定めるようになりました。857年には円仁(慈覚大師)が訪れ、本物そっくりの聖観音菩薩(御前本尊)を作りました。現在、年に1度12月13日に開帳される秘仏はこの御前本尊となります。秘仏といえば、法隆寺の夢殿の観音像や、長野県にある善光寺の一光三尊阿弥陀如来が有名ですが、絶対秘仏というのは非常に稀です。
浅草寺の歴史を紐解くと、これまで多くの火災に見舞われてきました。創建から昭和の戦災まで、炎上・倒壊の記録は十回とされています。その数も驚く数ですが、ここまで再建してきたことも驚くべき事実です。浅草寺は、創建以来、幾度となく火事で炎上倒壊していますが、その都度、時の武将や多くの協力を得て再建してきました。有名な武将の支持協力も記録に残されています。
1180年に源頼朝が平家討伐の必勝祈願に訪れ、1378年に火災炎上、その後、北条氏綱により再建。1572年に再び火災炎上後に、北条氏直により再建。1590年には徳川家康が祈願所に定め、1636年には徳川家光が参拝。
歴史上、これほど多くの炎上と再建を繰り返した寺社は珍しいのですが、その反面、奇跡的な再建に、秘仏の力も影響しているように感じてなりません。しかし、ここまで火災が多いと、本当に秘仏は現存しているのだろうかと、明治時代には大きく取り沙汰されました。不審に思った政府が当時の住職と共に確認したといわれていますが、確かに 伝承通り1寸5分の観音像が収められていたと伝えられています。
浅草寺はこれまで火災だけではなく、雷や戦火でも大きな被害を受けてきました。昭和20年の大空襲でも消失しましたが、御本尊はその直前に青銅製の手水鉢に収められ、地下深くに埋められ戦火を生き延びております。人々はその奇跡に戦後大いに励まされ、人々自身も励みとしたとされています。
[ – sara 桜羅 – ]