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江戸幕府の重鎮 保科正之

尊敬する江戸幕府の重鎮・保科正之(ほしな・まさゆき)。

難民救済のために食糧を施し、正しい政策を行った人物。

徳川家光の腹違いの子であるにも関わらず身分を伏せ、

家光を支え続けました。

保科正之の誕生は慶長16(1611)年。母お静は将軍・秀忠の寵愛を

受けて身籠もるが、正室・お江与の方の脅迫に耐えきれず、

尼の見性院の助けにより大奥を逃げ出して子を密かに生み育てた。

見性院は武田信玄の次女であり、かつてお静が女中奉公をしていた

秀忠の乳母の古い友人であった。

この見性院の縁で、正之は旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・

保科正光によって養育されることとなる。

寛永6年(1629年)、秀忠の正室・江の死後に18歳にして初めて

父・秀忠との面会を果たした正之は、寛永8年(1631年)

正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、

正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任された。

秀忠の家督を継ぐ家光は、ひょんな事から正之が自分と血を分けた

異母弟であることを知り、素知らぬふりをしては度々観察を続け、

やがて正之をことのほか可愛がった。

ある日のこと、江戸城内で大名達がいならぶ部屋のそばを家光が

通ると、正之は敷居際の末席に座り、おとなしく年長者たちの話に

耳を傾けている。家光が聞こえよがしに「肥後(正之)の上座に

つける身でもあるまいに」とつぶやいてみせた。

その話はたちどころに広まり、次に正之が登城して、いつもどおり

末席につこうとすると、大名たちは慌てふためいて、「肥後殿、

もそっとこちらへ」と上座に差し招く。それでも正之がにこやかに

遠慮して末席を動かずにいると、大名たちはぞろぞろとその下座に

移り、部屋はからっぽなのに、廊下にばかり人があふれるという

珍妙な光景になってしまったという。

その後しばらくして家光が、品川の馬見場で諸流の馬術を見ようと、

旗本たち40~50人を従えて中央の席についた。

つと家光は立ち上がって、大きな声を出した。

「保科肥後守は、まいっておるか。」右端の最後列にいた正之は

「ここにおりまする」と静かに答えて立ち上がった。

将軍が満座の中で特定の個人に呼びかけるのは、

きわめて異例のことであった。

「おお、さようなところにおったのか。そこでは、ちと話が遠い。

余の座敷がまだあいておるから、これへまいれ。」家光は正之を

自分の弟と認めたことを、満座の中で示したのだった。

寛永20年(1643年)、陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられ、

幕府より松平姓を名乗ることを勧められるが、養育してくれた

保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通した。

第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され親藩に列し、

正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。

—「正之の功績」—-

明暦3(1657)年1月、猛火が江戸を襲った。3日2晩に渡って

江戸の町の6割を焼き尽くし、10万人以上の焼死者が出た。

江戸城の天守閣もこの時に焼け落ちそうになると、正之は自らの

家屋敷を構わず火事装束姿で江戸城に詰め、将軍の身を守った。

また正之は火事が収まると難民救済のために各地で炊き出しをさせ、

さらに家を失った町民達に再建費として総額16万両を与えました。

この16万両とは、会津藩の年収に匹敵する金額である。

閣老たちから、幕府の御金蔵が空になってしまうという声が出ると、

正之は「官庫のたくわえと申すものは、すべてかようなおりに

下々へほどこし、士民を安堵させるためにこそある」と説いたのであった。

保科正之は、会津藩領民に仁政を施し、将軍家綱の後見役として

「徳川の平和」の礎を築き上げた人物として有名です。

家綱政権の3大美事と言われる末期養子の禁の緩和、殉死の禁止、

大名証人制度の廃止を政策として打ち出していきました。

中村 彰彦 著/名君の碑―保科正之の生涯 (文春文庫)  抜粋

[ – sara 桜羅 – ]

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