sara 桜羅読み物珠玉の言葉

「生くる」 執行草船(しぎょう・そうしゅう)

手に取った人に、生きる勇気を与えてくれる。
人は人により生かされていると、感じさせられる。
一言一言が心に沁み、そして心に刻まれた賢人の言葉。
人との縁により助けられ、支えられる。
まさにこの言葉の通り。多くの人に読んでいただきたい書物です。
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 執行草船(しぎょう・そうしゅう) 「生くる」  本より抜粋。
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 私を支えてくれたものは、知性でもなく、思想や哲学でもない。
ほんの少しの人の情けだけだった―。
人の情けに触れて、ひたすらに泣いた記憶だ。
この一片の赤誠が私を今日まで導いてくれた。
人の情に対する気持ちだけが、いつでも自分を底辺でがっちりと
支えてくれた。自分の存在意義を深く教えてくれたのだ。
自分の中に一片の赤誠ができれば、他者に対して一片の赤誠を
示すことができるようになる。
所詮、人間は自分がしてもらったことを、他人にしてあげることしかできない。
それだけが自分の誠となるのではないか。だから自己の人生を大切に思えば、
何よりも他者から受けた一片の赤誠を、自己の内部で成長させていくしかないのだ。
人物は、創らなければできない。あの人はなかなかの人物だと言われることは、
人生において最高の価値とされた。昔の人は、そう言われる人間になりたいと
思って生きてきたのだ。
人として生まれたからには、人を創らなければなんの人生ぞ。
我々は人物にならなければならぬ。
人物は人物に感化されることによってしかできない。
一廉の人物に出逢い、その人物を尊敬し、そうなりたいと強く願い感化されるのだ。
尊敬すべき人物の人生観を受け入れれば、感化された人も、その人物と
同じような人生を歩む。
生も性も正しさも、すべて慈しみ、育んでいかなければ本物にはならない。
信じることは、人生そのものを抱きしめることを意味している。
信ずる心があれば、すべてがある。信じることのない生命は、腐れ逝く肉と骨でしかない。
疑った時はいつも失敗した。疑うことで、肉体も精神も財産も、うまくいったこともない。
正しくて確実で安心できるものなどは、実は人生には何もない。何もわからないが、
日々努力し、喜んだり悲しんだりしているのが人生なのではないか。
真実や真理は、正しいものとは限らない。正しさにこだわっていては、真実や真理は見えない。
幸福とは、人間がそれを味わえるかどうかは、有難いものとして認識することが
できるかできないかにかかっている。つまり、生かされていることに対する
感謝の気持ちを持てるか持てないかが、幸福を感じられるか感じられないかの境目になる。
人は人道を知るために生まれ、人道を行うために生きる。
人道的な生き方にとって最も大切なことは、文化としての「人の道」に則って生きることにある。
人の道を外れた行為を邪(よこしま)という。その邪を糺すために断固として戦うことが、
人道的に生きることに繋がる。この戦いにおいては、思い遣りだの優しさだのは決して
示してはならない。思い遣りや優しさは、あくまでも人の道に則って生きる、
文化的人間同士の間にあって、初めて欠くべからざるものとなる。
人道的に生きる人間で、優しさが表面に出ている人物はほとんどいない。
思い遣りや優しさを、あえて封じ込めた戦いが、人道的な人物の顔に、深い皺を刻み込んでいく。
身を捨てて、歴史や文化を守ろうとする戦いを忘れた人間は、背骨を抜かれた腑抜けといえる。
人道の背骨は、非人道的なものとの戦いにある。背骨を持たない優しさや思い遣りは、
単なる弱さでしかない。
人道的人生は、強くなければ貫けない。弱さからは、決して生じる事はないと知らなければ
ならない。命が大切なのは当然だが、人間とは、命よりも大切なものがあることによって成り立つ。
それは歴史と文化、家族、祖国、天職としての仕事に他ならない。
優しさや思い遣りを封じた戦いの渦中に突入しても、自らは決して人の道にはずれた人間と
ならぬために、昔から文化的価値として「人倫の道」が示されている。
[ – sara 桜羅 – ]

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