sara 桜羅読み物文化・伝承珠玉の言葉

縄文の万葉集 第五回 「万葉秀歌集」をまとめた斎藤茂吉

近現代の日本屈指の歌人、斎藤茂吉は

万葉集全歌4516首の中から約400百の秀歌を選び、

「万葉秀歌集」をまとめ、ゆきとどいた解説を施して

鑑賞の手引きをまとめました。

かつて芥川龍之介が「わたしの身を預けた人」と

言っていた人物、斎藤茂吉。精神科医であると同時に、

短歌の世界でも芥川龍之介に高く評価されるなど、

多様な才能を持った人物でありました。

当時の文壇では精神を病む人も多かったため、

芥川龍之介だけではなく、

斎藤茂吉の診察を受けた人は少なくありません。

今回、何故、斎藤茂吉に焦点を当てたかといいますと、

茂吉が唱えた「写生」が、心を素直に投影させることに

努めたところにあります。

斎藤茂吉が唱えた「実相観入」は、対象に自己を投入して、

自己と対象とが一つになった世界を具象的に写そうとするもので、

正岡子規の写生論を発展させたものであります。

正岡子規は松尾芭蕉の影響を受け、松尾芭蕉は、

自ら見たまま感じたままを素直に歌う詠み方を生み出しました。

自然から感じたままを表現することは、

縄文の万葉集に相通ずるところがあります。

斎藤茂吉がどのようにして「実相観入」を生み出したのか、

歴史を少したどってみましょう。

斎藤茂吉は山形県上山で生まれ幼少期を過ごします。

家業の病院を継ぐべく東京大学医学部で勉学に励む傍ら、

万葉研究の佐佐木信綱や、俳句の正岡子規の影響を受けました。

当時、正岡子規が年代別に書き止めた稿本「竹の里歌」を読んでからは、

その写生感に感銘を受け、以後その精神を基本として作歌活動を

本格的に行うようになります。

斎藤茂吉は正岡子規の門下であった伊藤佐千夫に入門しますが、

実母いく、佐千夫の相次ぐ死去を契機に、

ひたむきな抒情を打ち出した傑作が生まれ、

その第一歌集「赤光」は芥川龍之介にも高く評価され、

当時無名だった茂吉の名は世に広められることになりました。

早くから茂吉の才能を見抜いていた芥川龍之介は、

「僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になったものでもない。

斉藤茂吉にあけてもらったのである。

(中略)

『赤光』の一巻を読まなかったとすれば、

僕は、未だに耳木兎のように、

大いなる詩化歌の日の光をかいま見ることさへ出来なかったであろう」

と、思い切った賛辞を述べています。

『赤光』に寄せる、胸にしみるのは母を題材に読んだ歌の数々。

「みちのくの母の命を一目見ん一目見んとぞただにいそげる」

「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる」

「ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」

・・歌は分らなくても、胸に染み入ります。

子として、親を思い、嘆き悲しむ姿がひしと目に浮かびます。

「実相観入」を唱えた茂吉さんなら、例え自分の身のことでなくても、

相手と一体となり、同様に嘆き悲しみ、思いを表した歌が

詠まれていたことでしょう。

代表的な下記の歌には、しみじみと故郷の、

そして優しかった母との思い出、そして思いが表されています。

「足乳根の母に連れられ川越えし田越えしこともありにけむもの」(たらちね)

幼い頃、茂吉が結膜炎にかかると、母は村はずれの不動尊に

目を治してもらうようお参りに連れて行きました。

そして、そこにある滝の水で目を洗い、帰りに茶屋で大福餅を買いました。

茂吉はその大福餅を買ってもらうのが嬉しく、結膜炎になりながらも

母に手を引かれ、喜び勇んで不動尊に参拝したそうです。

この歌は、その当時の思い出を懐古したもの。

すぐれた歌人として有名な斎藤茂吉は、

歌論、評論、随筆などにもすぐれた業績を残し、

文化勲章受章。歌人集「柿本人麿」は八年かけて研究をまとめ、

帝国学士院賞も受賞しています。

[ – sara 桜羅 – ]

齋藤茂吉 記念館

https://www.mokichi.or.jp/

おすすめガイド