文化伝統そして日本のこころ読み物文化・伝承

古代中国より継承されてきた書法を受け継ぐ日本の書法家[池田樵舟]

中国の書の真髄を現代日本に伝えた代表的人物に景嘉(けいか)がいる。

 

景嘉は1914年、中国清帝国の北京の名門の家に生まれた。
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した年である。

 

清帝国はすでに景嘉が生まれる2年前(1912年)に滅亡しており、
景嘉の一族も没落の憂き目に遭っていた。

 

しかし景嘉の父は清朝12代皇帝(ラストエンペラー)宣統帝溥儀(ふぎ)の
家庭教師を務めたほどの人物であったから、収入に事欠く状況にあっても、
景嘉は最高峰の学問を厳しく叩き込まれた。

 

景嘉二十歳のとき、日本が満州国を建国し、溥儀(ふぎ)が満州国皇帝に即位すると、
景嘉は北京を脱して一路満州国の首都長春に向かい、皇帝となった溥儀に拝謁する。

 

溥儀は聡明な景嘉を見て、日本留学の綸旨を与え、
景嘉は渡航して京都大学に学ぶこととなった。

 

こうして中国の最高峰の学問と日本人の素養を兼ね備えた文人、
景嘉が誕生するのである。

 

1945年、日本が敗戦し、満州国が滅亡すると、景嘉はいったん台湾に亡命するが、
後に再度日本に亡命する。

 

景嘉は、中国人として最高峰の知識人と言われた。
しかも旧満州帝国のトップ人脈である。
その交友は、日本の歴代総理の師であった安岡正篤、佐藤慎一郎、吉川幸次郎など
錚々たる学者たちに及んだ。

 

一般の男たちは景嘉の高い教養の前に近づくことさえできなかったのではないか。

 

ところが、その錚々たる学者たちにまじって、一人だけ、わずか19歳で景嘉の門下に入り、
景嘉が他界するまで8年にわたって直接師事した青年がいる。

 

彼自身、この期間が生涯において最も充実し、影響を受けた日々であったと述べている。

 

その青年は、後に、樵舟(しょうしゅう)と号する。

 

樵舟とはきこりのことで、山から木を船に積み、里々に運ぶ人のことである。

 

樵舟は景嘉から東山樵子(とうざんしょうし)の号を授かり、
略して東樵(とうしょう)と名乗った。景嘉が他界した後、篆刻の鈴木般山に師事し、
樵舟の号を与えられたのである。

 

書や篆刻の真の精神を後世に伝えるべき格好の称号ではないか。

 

樵舟の書は景嘉から体得した品格を備え、さらに鈴木般山や小林斗盦(とあん)などの
大家から直接学び続けた品格があり、また40年以上の地道な修養を通して高められた風格がある。

 

書や絵画には「気」が込められることが重要だが、樵舟さん自身の人生の積み重ねが、
品格、風格、そして優しさのある気を発しているのだと思う。

 

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特集NO1 . 樵 舟
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