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伊達政宗 と 片倉小十郎、真田幸村、虎哉宗乙

『独眼竜正宗』といえば誰もが知る戦国武将、伊達政宗。

当時、豊臣秀吉や徳川家康でさえも一目置いたという人物である。

そんな伊達政宗も、幼少の頃に病によって右目を失明し、

自閉的になっていたといいます。そんな正宗を変えたのが、

傅役(もりやく=養育係)であった片倉小十郎 景綱。

片倉小十郎(景綱)は「智の片倉景綱」と呼ばれ、剣術にも長け、

幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われる。

政宗は良きアドバイザーと出逢い、自分自身を見事に開花させたのだろう。

やがて暗い性格から、快活で文武両道に精進する少年に変貌したという。

片倉小十郎は幾多もの決戦場では伊達家の危機を救い、

その知将ぶりは「国家の大器」として豊臣秀吉、徳川家康からも

高い評価を得、伊達家髄一の名参謀とうたわれている。

豊臣秀吉側についた真田幸村は、自らの死を覚悟した大阪城落城前夜、

敵将である片倉小十郎公を知勇兼備と見込み、子女の後事を託した。

また片倉小十郎も子孫を絶やしては勿体ないと人物と見込み、

契りを交わす。これは生涯秘密とされ、事実が明かされたのは

真田幸村死後100年程経った頃だとか。

真田幸村の娘の一人、阿梅(おうめ)は2代目小十郎重長公の後妻に

なるほど、白石城主片倉小十郎公と真田幸村公には切っても切れない

縁となる。片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治めました。

片倉 景綱(かたくら かげつな)

※仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は

代々の当主が踏襲して名乗るようになった。

教育係を勤めたうちの一人、和尚の虎哉宗乙 (こさい そういつ)も有名。

自信を無くした政宗は、虎哉和尚に「片目では何をしても駄目か」と

問うが、和尚は中国の故事、片目にして勇猛果敢な武人、

李克用(りこくよう)の話をして励ます。

また、虎哉和尚の教育方法は変わっており、正宗に

「暑い時は寒い、寒い時は暑いという、ひねくれ者になれ」と教えます。

不思議に思った父輝宗が虎哉和尚に方針を尋ねると、和尚は

「何千もの人間を束ねる大将が、戦場で暑いからといって真っ先に

身にまとっているものを脱ぐようじゃ駄目だ。

どんな時も鎧を身にまとって中心に座を構えるのが大将たる者。

私はそれを教えようとしているのです」

深く感じ入った輝宗は、以後虎哉和尚のやり方には

一切口を出さなかったと言われています。

最後に、名君 伊達政宗が残した句を紹介。

松島や月と言えば、伊達政宗が残した言葉が心打たれます。

「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」

この言葉には、何も見えない暗闇の中でも

月の光を頼りに道を進むように、先の見えない戦国の時代、

自分が光になって闇を照らし、国を作り直すという思いと

自分が信じた道を頼りにただひたすら歩いてきた一生で

あったとの思いがありました。

[ – sara 桜羅 – ]

 

伊達家伯記念會「伊達政宗博物誌」
http://datemasamune.com/history/index.htm

瑞鳳殿(伊達政宗墓所)公式HP
https://www.zuihoden.com/

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