西行 物語 【西行と文覚】
【西行と文覚】
詩人は旅に遊びます。山を越え、河を渡るだけでも風景が変わります。
その変化が五感を刺激し、想像力を生む力となるのでしょう。
李白や西行、芭蕉が旅を愛したことは有名ですが、僧でありながら歌を愛し、
芭蕉も追慕した西行とは、どのような人物だったのでしょうか。
西行が生まれたのは元永元年(1118年)。二十三歳で出家するまでは佐藤義清(のりきよ)
という武人で、容姿端麗、文武に優れていたといいます。
京都高尾山(神護寺)に経文を学ぶ為に多くの僧が集まっていた時の事、弟子を数人引き
連れた文覚(もんがく)という僧が、西行のことを「仏道修行の身でありながら歌を詠み
歩くなどけしからん。どこかで見合うことがあれば、頭を打ち割る」と、口を大にして
腹を立てていました。
その数日後の事、旅をしながら修行を続ける西行が「今宵一夜の宿を借りたい」と、
偶然にも文覚の前に姿を表しました。弟子達が見守るなか、文覚が立ち上がり障子を
あけて西行をまじまじと見つめると、やがて二人は親しげに話し始めたのでした。
次の日に弟子の一人が「どうした訳なのでしょうか」と不思議に思って文覚に尋ねると、
「あれは文覚に打たれるような人物ではない。文覚を打つほどの者であった」と、
西行の面魂を称えたといいます。
文覚は湯河原に縁の深い源頼朝とも関係を深め、挙兵の為の助力もしました。
後に西行も文覚によって頼朝とも会見し、親睦を深めていきます。
【西行桜】
世阿弥作の能として有名な西行桜。舞台は夢の夜桜。
僧として、歌詠みとして今も多くの人を魅了し続ける西行は、桜をこよなく愛しました。
できることなら、最後まで桜を見ながら死にたいと願った西行は、
山家集に以下の歌を残し、本当に桜と共に事をなし終えました。
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの望月 ( もちづき )の頃
意味:
できることならば、春、満開の桜の花の下で死のうと思う、
お釈迦様が亡くなられた二月十五日に満月が照らす頃に。
芭蕉も追慕した西行とはどのような方だったのでしょうか。
【 西行花伝 / 辻 邦生】は、 多くの書籍の中でも特に
詳しく鮮明に西行の人生が描かれています。
[ – sara 桜羅 – ]